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2017年10月01日

ルターの信仰 10

『キリスト者の自由について』

1520年にルターはこういうタイトルの小さな本を民衆のためにドイツ語で書きました。
これは大評判となり、各地でどんどん印刷出版されました。
多くの人々が自分で読んだり、字が読めなければ読んでもらったりして、キリスト教信仰の中心を学びました(明治以来日本語に訳されていて、今は私の訳と解説がありますから、いずれぜひ読んでください)。

この本は「キリストがわれわれのために自由を獲得して、与えてくださった」と書き始めて、中心的な考えを次のようにまとめているのです。

キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。
キリスト者はすべてのものに仕える僕(しもべ)であって、だれにでも服する。


ここで語られる自由とは「おれさまだけの勝手気まま、好き放題」という自由でないことはだれにも分かるでしょう。これが書かれたドイツ語の感じで言うならば、この自由には「愛と連帯(結び付き)」の意味合いが込められているのです。

キリストの愛に結び付けられた自由であって、キリスト以外には服しない自由ですが、また同時に、キリストがそうであったように、この自由をもってすべての人を愛し、すべての人に仕える自由なのです。
「キリストに従う」というキリスト者の積極的な生き方が示されています。
こういう生き方をそれぞれに生きた信仰者は歴史の中にも、この日本の中にも大勢見出すことができるでしょう。
私たちも呼び掛けられているのです。
徳善義和
  

Posted by JELC TNG-teens at 16:00ルターの信仰(再)

2017年09月24日

ルターの信仰 9

《聖餐とはなんでしょう?! 》

礼拝では聖餐式が行われる日曜があります。毎週聖餐式をする教会もあります。
洗礼を受けている人が次々と聖壇のところに進み出て、牧師から少しのパンと少しのぶどう酒またはぶどうジュースをいただきます。
それだけならただのパンのかけら、ただのわずかなぶどう酒、ジュースにしか過ぎません。

大事なのは、これには十字架の前の最後の晩餐の時、弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えてくださったイエスさまのことばがあったということです。
パンの際には「これはあなたがたのために与える私のからだである」、ぶどう酒の際には「これはあなたがたの罪のゆるしのために流す私の血である」とイエスさまは語られ、牧師はそれを聖卓から先ず全員に告げます。
さらに一人ひとりにこのことばを繰り返します。

そうです。このことばと共にいただくときには、十字架のキリストを心に思い起こし、パンはそのイエスさまのからだ、ぶどう酒はそのイエスさまの血である、として私たちはいただくのです。
その時私たちはイエスさまをとおして、神さまから罪のゆるしをいただくのです。そう心に刻み付けると、小さなパンや少しのぶどう酒に込められた神さまの深い愛が伝わってきますね。
徳善義和
  

Posted by JELC TNG-teens at 16:00ルターの信仰(再)

2017年09月17日

ルターの信仰 8

《洗礼って、どういうことかな?》 
これを読んでいる人のうちにも、赤ちゃんの時に洗礼を受けた人がいるでしょう。
もう少し大きくなって幼稚園に入る頃までに洗礼を受けた人もいるかも知れません(こういう洗礼を嬰児洗礼、幼児洗礼と呼びます)。
自分の知らないうちに洗礼を受けちゃったんだ、どうしたらいいのかな、などと考えたりする人もいるでしょう。

でも生まれるとき、お父さん、お母さんを選んで生まれてくる人はいないのと似ていると言えるでしょう。
人間として生まれてきた赤ちゃんが、神のお守りのうちに神の子どもとして大きくなっていって欲しいという親の祈り、教会の祈りがあり、神が「これは私の愛する子」として受け入れて、それからの生涯を守り、導いてくださる生きたしるしがこの洗礼なのです。
この約束に応えて、その子どもたちは大きくなるにつれて、神のことを少しずつ学んでいくのです。

少し大きくなって教会に来るようになった人は(私のその一人ですが)、「自分も神の子どもとして生涯を生きよう」と思うようになったとき、教会に申し出て、神のことを学び、洗礼を受けるのです。
どちらも同じ洗礼、神が「あなたは私の愛する子」として愛と恵みをもって受け入れてくださる大事な式です。頭に水を注いで、同時に「あなたは神の子になった」という約束をくださることに変わりはありません。
徳善義和
  

Posted by JELC TNG-teens at 16:00ルターの信仰(再)

2017年09月10日

ルターの信仰 7

《みんなのために祈る―主の祈り》
主の祈りで「私たちの毎日のパンを私たちに今日お与えください」と祈りますね。あるとき尊敬する信仰の先輩から、「こんなものを書きましたので読んでください」と小さい冊子をいただきました。

「私たち家族は毎日それなりに必要な食べ物などを神さまから十分いただいているのに、こんなことを毎日お祈りしていいのだろうか、と思った」というのです。そしてある日はっと気付いたそうです。この「私たち」は自分たちだけではない、世界中にはなお食べるものがなくて困っている人たちが一杯いる、その人たちもこの祈りの「私たち」なのだ、と。その日からまた新しい気持ちでこの祈りに心を込めて祈るようになった、と書いておられました。私もとても教えられた思いになりました。

主の祈りの「私たち」はもちろん、この「私」や「あなた」です。しかし神の愛は広く深いのですから、自分たち以外も「私たち」に含まれます。その「私たち」は具体的に災害などにあって困っている人であったり、もっと広く世界中のどこかの、会ったこともない人々でもあるでしょう。

主の祈りだけでなく、お祈りはすべて確かに、この私が神に向かって訴え、語る祈りです。でもそのお祈りが私だけのことのみに留まっていたら、独りよがりのお祈りになってしまいます。私たちは神の前で小さい、取るに足りないものですが、その祈りもまた「世界を包む」もの、世界に関わりのあるものでもありうるし、そうありたいものです。
徳善義和
  

Posted by JELC TNG-teens at 16:00ルターの信仰(再)