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2018/3/27-29 春キャン@神戸
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2015年08月14日

真面目な話をしませんか?その49

八月は、原爆の投下と終戦日との関係からか、平和について考える機会が多いですね。特に最近は、集団的自衛権の行使について国会で取り上げられるなど、戦争と平和ということを意識せざるをえないような状況になっていると言えるでしょう。ティーンズの皆さんもまた、政治のことが耳に入ってくることもあるでしょう。また、記念日を迎え、平和について思いをはせることもあるでしょう。

皆さんより少し年齢の上の大学生たちが集まり、集団自衛権行使に反対の声を挙げたことについては、聞いたことはありますか?この大学生たちの運動についてある政治家が、戦争をしたくないという自分勝手な考えに基づいた行為であって、非難されるべきであるという主旨の発言をしました。皆さんの中にも、確かに何かのため、誰かのために自分が我慢すること、自分を犠牲にすることが貴いことであって、死ぬのがいやだからとか、戦争が恐いからとか、そういった理由で我慢や犠牲を放棄することはよくないと思う人もいるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。

死ぬのがいやだ、戦争が恐い、だから戦争をしないで解決できる方法を真剣に求め、考え、実行するということも、私たちには許されたことなのではないでしょうか。確かにそれは、ある人たちから見れば「逃げている」ことになるのかもしれません。しかし、逃げるということもまた、私たちが困難に遭ったときには、有効な手段なのです。

聖書には次のような言葉があります。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙一 10章13節)

私たちは真面目なので、困難に遭ったら、正面からぶつかってそれを克服しなければいけないと思いがちです。しかしここでは、神はその困難に耐えることができるように、逃れる道、逃げ道を与えてくださると言うのです。それは逃げの道で、恥ずかしい思いや非難を受けるものかもしれません。しかしまた、戦争を避けるために恥ずかしさや非難の中に生きることの中にこそ、真の平和があるのかもしれません。

この八月、私もまた、皆さんと一緒に平和について考えていきたいと思います。  

Posted by JELC TNG-teens at 23:59真面目な話シリーズ

2015年07月10日

真面目な話をしませんか?その48

これまで、礼拝について話をしてきました。皆さんの中には、春の全国ティーンズキャンプに参加して、礼拝について学んだ人もいることでしょう。あなたは礼拝を、以前はどのように考え、捉えていたでしょうか?春キャンやこのコラムを通して礼拝について学び、今はどのように考え、どのように捉えていますか?皆さんが、以前とは少し違った礼拝の経験ができるようになればうれしいです。

最後に、二つのことを確認して、礼拝についてのコラムを終わりたいと思います。一つは、ルーテル教会の礼拝理解の根本は、神の奉仕であるということです。これは、私たちから神への奉仕ではなく、神の、私たちへの奉仕です。私たちには、何一つ誇るものはありません。神に捧げえるものもありません。あるとすればそれは、罪人としての私たち自身です。私たちは罪人として、その言葉の意味する通りに、神の前に立つのです。

二つ目は、私たちは礼拝を通して、神の約束であるイエス・キリストと出会うということです。それは、世界の偉人や、倫理の教師としてのイエス・キリストではなく、私たち一人一人のためのイエス・キリストです。言い換えれば、私たち一人一人のために生まれ、生き、十字架にかかり、苦しみ、死んで葬られ、三日目に復活した神、イエス・キリストなのです。私たちはこのイエス・キリストという神の約束を聞きます。この言葉は、「言(ことば)」であり、創世記に神がそれをもって世界を創造し、今なお創造を続ける「ことば」です。私たちは礼拝を通して、このことばを、私のためのことばとして聞くのです。そしてこの出来事を通して、神が無から世界を創造したように、罪人である私たちのうちに信仰をつくり、新しい人、神の子として生かせてくださるのです。

ぜひ、これらのことを心に留めておいてください。あなたの礼拝の経験が豊かに祝福されたものとなるように、祈っています。  

Posted by JELC TNG-teens at 23:56真面目な話シリーズ

2015年06月26日

真面目な話をしませんか?その47

派遣(閉会)の部の、祝福について続きます。前回、前々回と新約聖書から見て来ましたが、今回は旧約聖書からです。

旧約聖書の祝福と聞くと、もしかしたら、「大祭司アロンの祝福」として知られる民数記6章24-26節を思い浮かべるかもしれません。日本福音ルーテル教会の式文では、この言葉がほぼそのままに祝福の言葉の一つとして用いられています。しかし、今回注目したいのは、創世記12章1-3節です。

神は、アブラム(アブラハム)に言います。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」 (創世記12:1-3、新共同訳)。祝福の流れを見てください。神はアブラムを祝福します。それは、他のすべての人が祝福を受けるための、その祝福の源になるためでした。

礼拝の祝福と派遣も同じです。アブラムへの祝福の約束は、イエス・キリストによって成し遂げられました。そして、私たちキリスト者は、この祝福を受け、この世へ祝福として、またこの祝福を分かち合う者として押し出され、派遣されて行きます。この出来事が、礼拝において起きているのです。  

Posted by JELC TNG-teens at 23:59真面目な話シリーズ

2015年06月12日

真面目な話をしませんか?その46

前回に引き続き、派遣の部における祝福について、ヨハネによる福音書から見てみることにします。

ヨハネによる福音書は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書とは異なる記述が多く見られます。イエス・キリストが十字架に架けられ、死んで葬られた後、復活して弟子たちに現れる場面もまた、ヨハネ独特のものです。ヨハネは、イエスが弟子たちに現れたようすのこのように伝えます。

「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい…』」(ヨハネによる福音書20章21-22節。新共同訳)。

弟子たちに現れ、手と足に残る傷を見せ、イエスはこう言い、その息吹き、聖霊を弟子たちに吹きかけたのです。弟子たちが、イエスがこの世に遣わされたように、遣わされていくためでした。

この出来事は、私たちにも起きています。私たちは、復活の日の弟子たちがそうであったように、礼拝の出来事を通して生きて、復活された主イエス・キリストに出会い、その霊を与えられ、この世へと遣わされるのです。それは、私たちのうちにイエスが生きておられるということであり、私たちは、私たちが日々出会う隣人にとって、イエスそのものであるということを意味します。私たちは、よく言われるように「小さいイエス」ではなく、その息吹、聖霊を受け、遣わされているがゆえに、隣人に対してイエスそのものであるわけです。

ここに、派遣と祝福の不思議、神秘があります。次回は、創世記から見て行きます。  

Posted by JELC TNG-teens at 23:59真面目な話シリーズ